看護教育は、丸太が二本あればできる

りんご一かごをさげ、カスリのモンペ姿で、皇居のお堀端の第一生命ビルにあるGHQをたずねた。雲つくような大男の門衛兵にビクビクしながら案内を乞い、オルトさんの机の前に坐った。青森まで来てほしいとの招待に、喜んで行くとの返事をもらい、私は小躍りした。そのとき私は問われるままに、戦中戦後の青森県の病院や看護教育のことを話した。病院はどこでも給食ができなくて、患者が食糧を持って来て家族が病室で七輪で煮たきをしていること、看護婦の生徒は着るものも履くものも不自由で、その日その日の食料を見つけるのが精一杯であること。タオルやシーツもないので、看護法の実習には新聞紙をタオルやシーツと思って勉強していること、そんなことを話し、しかし、戦争は終わったのだから、将来のために私たちは何かしなければならないと思っていると話した。オルト大尉は終始笑みを浮かべながら聞いていたが、こう言った。『看護教育は、丸太が二本あればできる。一本には教師が、一本には学生が座ればいい。(中略)ナイチンゲールが看護婦学校をつくったときのことを思ってみましょう。わずか六人の生徒から始めましたね』。(中略)焦土のなかからやる気さえあれば、まず丸太二本の心意気でやろうじゃないかと励ましてくれたのであったどんなに力強かったことか

金子光編著『初期の看護行政』(日本看護協会出版会、1992年)
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1947(昭和22)年、GHQの看護改革の一つであった日本産婆看護婦保健婦協会(いまの日本看護協会)の設立を受け、花田ミキさんは八戸赤十字病院で婦長を務めながら、青森県の協会設立に奔走します。明治以降の歴史を誇る産婆と、第二次大戦中に協会がすでにつくられていた保健婦協会、組織があるかないのかもわからない看護婦を一つの組織にすることは難航を極めます。
そこで花田さんは「GHQにまずは事情を知ってもらおう」と単身で東京入りします。りんごが入ったかごをさげて。
花田さんを受け入れてくれたのはグレース・E・オルト。GHQ公衆衛生福祉局看護課長(陸軍大佐)でした。
▽オルトさんの写真はこちらから
Army Nurses- Major Jacqueline Burford and Major Grace E. Alt(The National Library of Medicine)
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