保健婦の活動

第1線に働く/へき地に掲げるともしび
■へき地の慣習にいどむ
海の中へ突きだした角のような下北半島東部。そこにも生活がある。
二九四平方キロメートルの広大な東通村の三〇余の部落に住む一万一、六六〇人の健康が、ひとりの女性の小麦色に日焼けした手に託されている。
紺のユニフオームを着て黒い訪問鞄をさげ、町村派保健婦村中トシさん(三十二歳)は、今日も二キロメートルほどの道程を歩かねばならぬ。やせた苗の葉末を冷たい濃霧が過ぎるとうねうねと伸びた道が現れる。
厚生省の基準によると、東通村は最低四人の保健婦が必要とされる。国家試験をパスした資格者の多くは、給与も高く、都市の学校に勤められる養護教諭になってしまう。医師も保健婦もいない市町村のために、県では、昭和四十年から町村派保健婦という制度を始めた。村中さんも身分は県職員のまま四十一年四月、東通村に派遣されて来た。村長の指揮下に入ることになるが、保健所が後にひかえてバックアップし、県の関係機関、団体の援助も受けることができるので、活動しやすい。村中さんは、いま、月に十日ほど、むつ保健所の応援をえている。昨年からはヘルスカーでやってくる県学校保健会の医師も、学校検診にあわせて地域の六歳までの子ども達の健康診断をしてくれている。
「部落の人から〝来月もまた来てくれるんでしょうか〟と問われて〝きっと来ます〟と言えないのがいちばん、つらいんです」と村中さんは言う。
昭和三十七年の東通村の乳児死亡は、出生千人に対し六〇.三の高率であった。最も遠い尻屋から、病院のある田名部まで三三キロメートルある。妊娠したら早期に検診を受けるようにすすめても、診察料三〇〇円より高い五〇〇円のバス代を払って、一日がかりで来るような恵まれた家庭は少ない。それに長い悪路をバスにゆられると、かえって流早産をひきおこす可能性がある。そうしたへき地固有の壁のために、保健衛生の知識があれば防げるような肺炎や消化不良で乳児が死んでゆくのが多いのである。村中さんは、乳児がひどい黄疸にかかっているのを老婆が「赤ん坊というものは、生れてから七色に変るもんだから心配ない」と若い嫁に教えているのを知った。また、出産後、局部をクレゾール原液で洗浄し、ひどい状態になっているのに思わず眼をおおってしまった。こうした事実のひとつひとつが村中さんの胸に重く沈殿し、急速にひとつの決意に固まっていった。部落民の健康への態度を数年のうちに変容させてみせる。こうして、毎朝七時に家を出て、晩六時でなければ玄関をくぐらない生活が始まったのである。
保健婦の仕事は地域社会へ溶けこまなければ、なにひとつできない。古くから維持されている部落体制に向って、村中さんは、じっくりと滲透してゆく。まず、母親の背にある乳児の健康状態をたずね、老人を訪問して血圧を測定する。固かった部落の人々の口も、おのずとほころびて来て村中さんにあれこれと聞くようになる。村中さんはワンステップだけ前へ進んだ。
■健康を組織する
快晴の日が少なく、栄養が不足なこの地方には、健康を増進する食事のとり方を示したい。脳卒中の死亡が多いので、塩分の少ないみそつくりも教えたい。なによりもまず、清潔な環境づくりを始めなければならぬ。水量が不足なので、皮膚病を持っている学童が目立ち、トラホームの罹患も多い。
村中さんは、週一回だけ医師が訪れてくる尻労、小田野沢のへき地診療所を利用して「健康学級」を開設し、こうしたことをそれぞれの専門の講師に話してもらった。クラス員は五〇人、おもに主婦が多いが、しだいに男たちも見かけるようになった。六日の学習期間に村中さんが特に強調したのは、ゴミの処理と、家の前に置いてある小便たるの廃止だった。尻労では、海辺の崖下にゴミを捨てるので、それがうずたかく盛り上り、鼠や蝿、蚊などの発生場所になっている。夏期にはうじがはいまわる小便たるにせめて、ふただけでもつけてほしい。
健康学級を聞いて帰った主婦たちは、主人に働きかけ、部落の常会は、ゴミを焼却すること、燃えないものは穴を掘って埋めることを決議した。部落が動きだしたのである。村中さんという、ひとりの保健婦の活動によって環境衛生の問題は除々にではあるが、部落全体の意識のうちに高まってゆく。部落の老人は、
「昔は、蝿を手で払って飯を食ったもんだが、最近は昔と比べるとずい分、蝿がいなくなったもんだ」 と話していた。
東通村では年間二〇万円ほどの予算を組んで、年、数回、殺そ剤などの薬剤を各部落に配布している。しかし効果ある散布の仕方を教育する機会がなかった。村中さんは、防除効果をあげるため、薬剤散布の日をきめて、部落全体が一斉に散布するよう通達してほしいと役場に意見をのべた。こうして、村中さんは、ぐんぐん地域社会に食いこんでゆき、保健所と村と部落をつなぐ鎖になった。へき地診療所には、連絡簿が備えつけられてあり、村中さんが記した問題点を医師が読んで指導すべき点を書いておく。
■かぎりなき前進
こうした村中さんの活動の結果は、すばらしいものになった。東通村の乳児死亡率が四十一年に二一.五になり、四年前の六〇.三の約三分の一に減少した。この秘密は、妊娠の早期届け出にある。
三十九年には届け出が四六.一%しかなかったものが四十一年には九七.三%に上昇している。診療所を訪れた母親たちは
 「以前は母子手帳をもらっても、誰もここまで来てくれないから役に立たなかったもの。村中さんが廻ってくるようになってから皆、届け出て母子手帳をもらうようになったよ」
 と語っていた。村中さんは、
「いええ〔いいえ〕、私だけの力じゃないんです。みんなの協力、いや村や県の力ですわ。ことに知事さんが妊娠届け出にサラシを支給する施策を打ち出されてから、早期届け出が多くなりました」
 と言う。妊娠の早期届け出は異常の早期発見に通じ、それがまた、乳児の死亡率まで影響を与える。
終点でバスを降りると部落の母親たちが出迎えて、口々に「ご苦労さんです」と声をかける。村中さんは、明るく家族の健康状態をたずねる。東通村全体の家族のひとりひとりが村中さんの脳裏に刻みこまれているのだ。さっそく、尻労診療所で乳児検診が始まる。ひとりの乳児の首のまわりに赤くおできができているのをみつけ、母親に質問をあびせかける。白衣を着て、椅子に坐った村中さんは態度がすっと引き締まり、視線がきびしくなる。すりガラスの窓から入る柔かい光のなかで、そうした姿勢を美しいと思う。
「お母さん、これはね。着せすぎて赤ちゃんが汗をかき、あせもがでたの。それが崩れてこうなったんですよ。もう一枚、脱がしてくださいね、それからパウダーは薄くするように」
母親たちの信頼の眼ざしのなかで、彼女は、むぞうさに髪を撫でつけ、テキパキと動きまわる。
仕事が終って一息ついているところへ「保健婦になった動機は―――」と聞くと、彼女は、ふっと頬を赤らめて口ごもる。
看護学院で戴帽式のとき、キャンドルを見つめてとても感動したことを覚えていますが、正直いって保健婦になるときは美談めいた情熱はなかったわ。ただ、もう少し勉強したかっただけ。養護教諭などにならなかったのは、保健婦だと、自分で地域の問題を発見して、自分で企画し、解決してゆく自由があるから」
 と言い立ちあがる。
「人間が健康であるっていうことは、すばらしいことじゃない。」
 とつぶやくと訪問鞄を抱えて逃げるように家庭訪問に出る。減ったローヒールの靴が鉛色の海の方へ下りていくのを、いつまでも見送った。(広報課 小笠原記)
青森県史資料編近現代6 459~461p

https://kenshi-archives.pref.aomori.lg.jp/contents/kenshi-front/index.html?fbclid=IwAR1QpZ5brV7MuwTtDTkyq3kUwy91YUKM5lJKwkqG-OiHoPWhRjT4A5SC4vU

※「花田ミキ」で検索すると出てくる資料を紹介します。
写真は東通村の寒立馬です。保健師の皆さんの冬の移動は大変だったことでしょう。その中でも命を守るためにと巡回をしていたみなさまに感謝の念を禁じえません。

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