ものみなおわりあれど

ひるの銭湯には、新しい湯があふれて、ひろびろとしたタイルを洗い、いいものである。
ときには、浴室いっぱいに、乳色にたゆたう濃い湯煙におどろいたこともあった。フッと黒石市湯川にある”ぬる川や 湯やら 霧やら 月見草“という吉川英治の句碑を思い出したりした。
しかし、ひるの銭湯のような、ささやかだが、キラキラした、生活の再発見も、かき消してしまう致命的なできごとがおきている。それは、物のねだんがあがってゆくことである。食糧でも、衣料でも、昨日のねだんは、今日のものではない。少しばかりの蓄えなど、音をたてて目減りしてゆく実感に追いかけられている。
昭和四十年の十万円は、いまの六万円とか。
このようなインフレは、殊にも、人生の余白の少ない老人にはきびしい。
ボーボワールは、その著者「老い」のなかで情熱をこめて、次のように語っている。
「老いが人生のパロディーでない唯一の方法は、人生に意味を与える目的を追求し続けることである。老いても強い情熱を保持し、愛や友情や義憤や同情をとおして、ほかの人びとの人生に価値をおくかぎり人生は価値をもちつづける。老年期を準備するというような消極的な姿勢ではなく、老醜とのたえざる闘いのなかで、人間としてあつかわれることこそ、重要である」。
このごろ、ポックリ大明神やコロリ様進行が流行(はや)り出しているが、人としてあつかわれることを求めるより先に、てっとりばやく安楽死を願う風潮がひろまっている。
このインフレにさらされていれば「人生の意味」など考えることは、次元が違う世界のことと受けとる人がふえてくるのは、当然であろう。人が生き切る姿勢をとるには、それなりの条件がととのわなければならないのに、インフレは「棄老」という現象を、テンポも早く招き寄せている。人のこころを荒廃と、はげしい生存競争とを伴いながら…。
ものはみなおわりがあるのにインフレはやまない。
花田ミキ「巻きもどすフィルム」53-54p
昭和48(1973)年4月に東奥日報の記事として掲載されたものです。
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これは1973年の記事ではなくいま書かれた文章のように感じます。「人としてあつかわれることを求めるより先に、てっとりばやく安楽死を願う風潮がひろまっている。」という言葉が重いです。

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