遺されし子ら

突然、埼玉のNさんから、手紙をいただいたのは、一昨年のことであった。
私が戦時中に勤務していた、さいべりあ丸に、父上が船長として乗船していたが、昭和十九年(一九四四)夏に、爆撃を受け、船と運命を共にしたという。
長く、戦没の場所も月日もわからなかったが、ようやく、南方の島で空襲をうけたことを、父上の同僚から聞いたのは、つい近年のことだという。
私が、さいべりあ丸に乗船していたという情報をどこからか聞いて、船長であった父上を知らないだろうか、話をしたり、船で接触があったのではないか、何でもいいから知らせてほしいということであった。
昭和十八年の夏には、私はさいべりあ丸を下船している。
その後、病院船は、輸送船となって、南太平洋の島に、兵員や物資を輸送する任務についていたようである。
昭和十八年ごろの南太平洋は、米軍の猛烈な空襲、雷撃によって、輸送船を含む、百トン以上の就航船三千隻余の八十八%にのぼる二千七百隻が、撃沈されたという恐怖の海であった。
戦時中は乗員と共に、商船を徴用して就航させていた。

戦時下の海に働いていた船員の総数は、約三十万人、戦没船員は、六万三千人を超えるとされている。
商船船員の死亡率は、陸、海軍人の死亡率二十一・一六%に迫る。Nさんは幼くて、父上のことは、よく知らない。母上、妹さんと、苦しい戦後を生き抜き、社会人となってから、夏には、南方の海に出かける旅をつづけている。
潜水して、いまだに沈没している当時の船の残骸をカメラに収めた。先年、その写真展をひらいたという。
Nさんはいたるところの南の海の浜にすわり、大きな声で「お父さあん」と呼びかけて、慟哭するという。
そのときは、亡き父上の息吹(イブキ)にふれているような気分になると書いてあった。
Nさんの父上と私は、さいべりあ丸にある期間、ともに乗船していたらしい。
ブリッジにいる船長の姿を見かけたが、じかに話をしたことがない。Nさんは何でもいいから、船長にかかわることを知らせてほしいと再び手紙がきた。
私は、戦時中に、走り書きをノートに記していた。その抜き書きを添えて、Nさんに手紙をあげた。
『昭和十八年(一九四三)一月のある夜、パラオ島から、傷病兵を病院船に収容して、広島を指して出港。

午後十一時、あわただしい足音。
船首の見張り船員が、ブリッジにかけのぼった音だ。
とっさに、救命ブイとジャックナイフ、ロープをつかむと、居室の床を切りとり、じかに病室に降りられるように、新しく作った急なタラップをかけ降りた。
潜水艦の潜望鏡と魚雷の航跡が見えたらしい。 
船は傾き、騒然としていた。
病室は点灯され、起きられる患者は座って、救命ブイをつけ、帽のあごひもをかけている。 
重症者のそばには、割と軽い患者を責任番として決めていたので、運搬するばかりの姿勢。
一瞬に情景が目に入る。
広島の山から探してきた重しの石を入れた非常持出用のカルテ袋は、看護婦が背負っている。
看護婦は、歩けない患者を、救命ボートのあるボートデッキに背負ってゆく準備をしていた。
船員もとびこんできて、患者を背負った。
船は、大きく傾きながら、蛇行をくりかえした。
切迫した時間がたち、やがて待機の姿勢が解かれた。
聞くと、魚雷が発射されたらしいので船はジグザグ航法で、魚雷を船すれすれにかわし、危うく難をのがれたという。
患者が乗っている病院船ですら、無差別に攻撃する敵に怒りがこみ上げる。』
―当時の私の戦後日記から―

(注)ちなみに、このときの病院船さいべりあ丸は、船体を白く、船腹に大きな
赤十字をえがいたジュネーブ条約に決められた塗装を施していた。   
船長の、沈着、卓抜した操船技術のおかげで、多くの傷病兵を含む私たちが助かった。
父上は、命の恩人だと、私はその夜の情景を書き、「お父さんを、誇りにして下さい。」と書き添えた。
自著「燠(オキ)なお消えず」を贈った東奥日報東京支社長の菅勝彦氏から、こんな手紙をいただいた。
『「戦争は善なのか、悪なのか」
「善なる戦争はありえるのか」
「腐った平和に甘んじるべきなのか。」
 難しい理屈を立てることも可能でしょう。
しかし、僕は、「腐った平和」でもいいといいきることにしています。』 
この方の実の父上は昭和十八年(一九四三)五月二十九日、北方の島、アッツ島で玉砕された。 
Nさんや菅さんの父上の骨はもちろんない。お墓は海である。 
南の島で、また、北の島で戦没された人たちの無念を思う。 
父亡き後の幼いものたちの苦難と、傷跡は、永久に消えることはないだろう。
「鎮魂のうた」79-84p

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