"生家弘前で四カ月過ごした私であったが、体調がすぐれないなどと言っていられない戦況になっていた。
要請で、八戸の赤十字病院に赴任した。看護婦の教育担当であった。二百人近い看護婦や学生のたべものの確保に書けまわった生活が続いた。
昭和二十年の八月には広島、次いで長崎に原爆がおとされた。
八戸市も、艦載機の襲撃におびえる日がつづいた。"
燠なお消えず-花田ミキ
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花田ミキさんが働いていたころの八戸赤十字病院の玄関の写真です。市内の中心地にある「鍛治町」にありました。
鍛治町に隣接するのは、花田さんの本によく出てくる長寿山です。
写真は「創立五十周年記念誌」(1993年、八戸赤十字病院)より