鈴木治子さん

花田ミキさんの県庁の同僚で、強力なタッグを組み青森県の看護行政を改善していった鈴木治子さんのご家族を訪れ、お話をうかがいました。当時のお写真もたくさん見せていただきました。

花田さんも鈴木さんも「仕事に厳しい人だった」「"人の命を守る"という目標は一緒だった」「県庁の廊下を走って移動していた」という話を聞きました。

ただ仕事の場を離れると「お茶目だった」な一面も!

当初は「女性だからと出張に行かせてもらえない」状況だったようですが、アルバムの中には2人で県内を回り講演や保健師のみなさんへのアドバイスをしている写真がたくさんありました。

2人の熱意と、行動が、空気を変えていったのですね。とにかく「行動・実行をしている」印象を持ちました。

こちら松岡裕枝著『花田ミキという生き方』(東奥日報社、2010年)の中にある鈴木治子さんのインタビューの引用です。

時計は花田ミキさんが使っていたものです。

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一九五七(昭和三十二)年、花田ミキが係長を務める県看護係に鈴木治子が配属されてきたとき、看護係は県庁で最も哀れな係といわれていた。県内の看護事業の指導・監督の係であるにも関わらず、花田ミキのほかに、女性事務職員が一人いるだけ。一言で言えば、予算なし、人員なし、活動なしの状態であった。

(中略)

にっちもさっちもいかない、ないないづくしの係。しかし、花田ミキが、鈴木と話し合う時間だけはたっぷりあった。

「看護係は予算が少ないから、県内の状況を見て歩くわけにもいかず、私と花田さんは来る日も来る日も机の上で、看護行政のあるべき姿を繰り返し話し合いました。私は以前、福祉の方で働いていたのですが、話し合っているうちに、福祉の仕事も、看護係がかかわる保健婦の仕事も、住民に働き掛ける方法は同じなのではないかと気づきました。そして、『花田さんと私は考えていることは同じだな』って、思いました。当時はいろいろと大変でしたよ。女は出張に出してもらえないとか、何をするのも差別があって。女性が自分の考えを主張していくというのは、大変なことでした。私は昭和二十五年に県庁に入りましたが、その後、児童相談所でも働きました。そこは本庁と違い、”日陰の役所"でした。何にもお金が出ないから、仕事のときは自転車で駆け回って。同じ県の役所でありながら、役所によって差別があり、男女によっても差別があることが分かってね…。ずいぶん抗議しましたよ。それで私は職場を出されて、看護係へ来たというわけなんです。

引用

松岡裕枝著『花田ミキという生き方』(東奥日報社、2010年)104~106p

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