誕生日の夜

10月7日に公開した「誕生日の夜」の続きです。
「出征」ということばを言うことは禁じられていたし、公然と応召者を歓迎することもできなかった事変当初の青森であったが、次第に街にふえてゆく「祝応召」ののぼりとともに、街は、緊張と興奮の潮が渦巻くようになっていった。
そのころ、日赤支部に投げ込まれる手紙には、地方の娘さんの看護婦採用願いなどが、分厚く、主事補の机上に積まれていた。
中には、「ホゥ一寸激しいナ」とおどろくような血書の召集志願の手紙もまじっていた。
しかし、赤十字の動員計画は、他からの志願に左右されることもなく、第一次、第二次と応召者名簿がつくられていて、何時、本社から電報が来てもいいように、待機の姿勢であった。「一昨夜も昨夜も、深更まで、左となりの市役所には、灯がともっていた。兵隊の召集事務なのだ」という日赤支部の事務室の話に何かしら心急がれる思いであった。
事務行李の内容も整備し、看護婦の制服も下着も真新しい品で揃えられていた。
花田ミキ著『語り継ぎたい-父母と船中記録』6p
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調べたところ1937(昭和12)年9月9日の月は月齢4.2。青森市の最高気温は25.0℃。最低気温は14.6℃。朝6時まで小雨が降っていましたが、7時以降は雨はやんでいる。そんな日だったようです。
▽過去の気象データ検索(気象庁
▽満月カレンダー

ちなみに写真は月齢4の月です。花田さんもこの月を見上げていたのでしょうか。

:*゜..:。明日のために、昨日を語る :.::.*゜:.。:..:*゜

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