草創のころ (現)看護研究家 花田ミキ

昭和20年8月15日、第二次世界大戦の敗戦の痛手も深く、焦土にようやく生きていた頃、新しく平和憲法が制定され、我が国は民主国家として生まれ変わった。女性解放の勢いが追い風になり、看護の世界も黎明の時を迎えた。

その頃、当時の産婆、保健婦、看護婦の有志が東京で職能人の組織化をしようとの動きがおこった。この準備会に本県から参加した小山、奈良、花田の3名が呼びかけ人となり、日本看護協会青森県支部の設立準備会をつくった。当時進駐軍の指導で東京に作られた模範看護教育学院のような、高いレベルの公的な看護教育施設を作ることを、組織の第一目標にかかげた。協会支部が昭和22年に発足してからは、組織をあげて、知事、県議会、関係方面に猛運動をくりひろげた。

運動の趣旨はこのようなあらましであった。「これまで、我が国の看護教育は寺子屋式の従弟教育であった。これから、我が国に必要なのは、理想を持ち、社会の保健計画の柱として位置づけられた看護教育なのである。そのために、公的な施設をつくり県民の命を守ってほしい。」

また、力説したのは、病院の繁忙に埋没しやすく、かつ医療費を割愛して恵与する形の看護教育ではなく、独立した経営基盤をもつために、病院の附属にはしないでほしいと要望した。これは、イギリスのF・ナイチンゲール1860年看護学校を創設したときに貫いた彼女の哲学であった。その卓見をそのまま、私たちの運動に取り入れたのであった。

昭和25年、全国にさきがけて、独立の経営基盤をもった県立の看護教育施設の設立を決断したのは、時の津島文治知事であった。

その後も看護協会支部では組織としてのステージを目指し、大学への昇格運動を続けた。はじめ、専門学校、次いで看護短大、単科大学と歴代知事も昇格計画をつくられた。現在の看護、福祉、理学療法を併立した県立保健大学として実現したのは木村知事による。

敗戦から半世紀。この流れをみるとき、忽然と保健大学が出現したのではなく、その源流は、平和の中で命の守り手を教育する施設が欲しいとの保助看の祈りが、脈々と息づいているのを知る。

草創のころを知る私は県立高看と共に当時の仲間たちの志も、ともに消え去ってしまうような気がしてならない。たとえば、旧制中学、旧高女が新制高校にきりかわっても同窓会が併立して名を列ねているような形で、何らか方法がとられないものであろうか。

ともあれ、閉院にあたって県立高看の草創の志を、広く知っていただきたいと思っている。そして、その流れを汲み、県立保健大学がさらなる発展を遂げることを願ってやまない。

「まきもどすフィルム」
昭和60年11月
花田ミキ著

「記録誌-閉院までの49年間の歩み 青森県立青森高等看護学院」より

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その源流は、平和の中で命の守り手を教育する施設が欲しいとの保助看の祈りが、脈々と息づいているのを知る - この言葉に、花田ミキさんが望んだ「命を阻むものはすべて悪」であり、平和な世界の実現の思いがこめられていると感じました。

:*゜..:。明日のために、昨日を語る :.::.*゜:.。:..:*゜

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