沖縄県保健婦長会編・著『沖縄の保健婦たち』(ひるぎ社、1994年)

保健婦の仕事を知るために」と本のご推薦やご寄贈をいただいております。今回は、沖縄の保健婦の活動記録です。1941(昭和16)年に保健婦規則に基づき、県令による保健婦規則施行細則が交付され、翌1942(昭和17)年に保健師の要請がはじまった沖縄。沖縄戦がはじまると保健師も看護隊として動員され、戦火に巻き込まれ、多くが戦場に没したといわれていますが、その実数は定かではありません。敗戦後、1951(昭和26)年のサンフランシスコ平和条約により、沖縄県は1972(昭和47)年の日本復帰までの27年間を、アメリカ施政権下におかれました。アメリカの施政権下では、公衆衛生看護婦として生活に密着した援助の実践を行い、人々からは「公看さん」と呼ばれ、時には医師のいない離島唯一の医療従事者として、本土からの緊急輸送ヘリが来るまで必死に命を守り、つなぐことに尽力した事例が紹介されています。日本復帰後は、本土法に基づき保健婦と名称を改めながらも、離島の多い沖縄県で奮闘します。

この本の事例の多くは、保健師ひとりの奮闘ではなく、保健師が密に市役所、民生委員、社会福祉協議会ケースワーカー、病院と連絡を取り合い、一緒に訪問しながらひとりの患者を診ていることです。「S子さんとのかかわりを通して、福祉、医療(病院、保健所)、市町村の担当職員等、関係機関の連携の大切さを改めて知りました。また、患者にかかわる人々が各々の役割を自覚し、一つの目標に向かって支援していく時に、患者が大きく変化していくことを実感しました」(119p)

いまの保健師を取り巻く仕事も関係者と連携をしながら円滑に行われているのか、気になります。

もう一点は、病気等に関してだけではなく、生活全般を気にかけているということです。病は気からではありませんが、症状が発生する原因は体の不調だけではなく、心の不調もあるのではないかと粘り強く観察し、コミュニケーションを途絶えさせないようにと患者の元を訪問しています。

---

戦後の医療は、本島内はもとより特に離島にあっては医療施設は皆無に等しい状況にあり、昭和二十五年一月米国政府に赴任してきた看護顧問ワーターワース女史の強力な指導の下、県内看護指導者の熱意と指導力によって公衆衛生看護婦の地域駐在制が確立していった。

女史は、住民に対して日常生活の場で、生活に密着した援助の実践と、公平な公衆衛生看護サービスを提供する目的で地域駐在制を導入し、公衆衛生看護業務を効率的に推進していった。

207~208p
---

「住民に対して日常生活の場で、生活に密着した援助の実践と、公平な公衆衛生看護サービス」が根付いたのは、ワーターワース女史の思いがあったからなのではと思いました。

この点に関しては専門家の皆さまのお話を聞きたいです。

最後に「あとがき」より抜粋させていただきます。

---

時代と共に住民のニーズも変わり、問題やその対応にも変化がありますが、住民と共に歩む保健婦の思いや、仕事に対する情熱は脈々と受け継がれていることが事例をとおして感じられます。

この事例集には、身体的に又は精神的に病み、時には社会的に、そして経済的にも底辺にあって複雑な問題に苦悩する人、また障害を背負って生きている人、それらを支えながら生活をしている家族の姿など三一の事例が紹介されています。一人でも多くの方々に、このように懸命に生きている人々を理解し、関心を深めていただきたいと願わずにはおれません。私たち保健婦もこうした多くの事例をとおして人間としての生き方を学び、保健婦として成長していることに感謝しています。

213~214p

---
webの本棚サービス「ブクログ」で本棚をつくりました。ここに紹介をいただいた本を掲載してまいります。

ただこの本はブクログに出てきません。地方の出版社の本だからでしょうか。とても残念です。

記録されないものは記憶に残らないーそう思っています。明日のために昨日を語るためにも、本が出版されたという記録だけでも公開してもらいたいです。

「明日のために、昨日を語る」本棚 映画じょっぱり 看護の人花田ミキ
https://booklog.jp/users/hanadamiki
:*゜..:。明日のために、昨日を語る :.::.*゜:.。:..:*゜

f:id:hanada_miki:20211011101155j:plain