身を切られるすすり泣き

開設直後の分院は、あらゆる備品が不完全で、衛生材料も足りないものだらけ、少しばかりの紐、一箇の空鑵、ほしくても手に入らない。繃帯交換の後の、うず高い汚物をすてようにもすて場所がなく、シャベルをかりて、バラックの裏側に穴をほって捨てた。
「看護婦さん、看護婦さん」とあちらこちらから呼ばれ、のめるようにして仕事を片づけていく。足の疲れも忘れて立ち働いた。
夜勤の一晩中、病室のあちらこちらから、傷の疼痛に耐えかねて、低い涕涙が絶えなかった。
なろうことなら、代わりたいと、そのすすり泣きの声に、身を切られるように思った。
患者は知らないが、傷病兵の中から、毎日ポツリポツリとコレラの疑似患者が発生して、隔離されていった。
「内地が見えるのに、どうしてこんな小島などに置くのかなァ」とつぶやく患者もあった。
花田ミキ「語り継ぎたい」12p
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昭和12年(1937年)に病院船勤務となる花田ミキさんが、最初に配属されたのが広島の宇品港にあった似島でした。似島は明治時代より、陸軍の検疫所があり、戦地から帰った傷病兵が検疫を受けるため碇泊していました。
傷の痛み、そして、似島から見える広島市の山々を見ながら「ここまで来て内地に降り立てない」ことに絶望といら立ちを感じている兵士もいたことでしょう。
「なろうことなら、代わりたいと、そのすすり泣きの声に、身を切られるように思った。」このとき花田ミキさんは23歳。看護師になって3年目で、戦争が花田さんの人生を変えていきます。
写真は似島からみた本土の風景です。

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