苦しい暮らし父母からの手紙

「靴なくて街の下駄ばき騒然」と戦地に父の便りとどきし
月二度の銭湯券の配給を母は嘆きしいくさ果てなく
南瓜背負い塩と換えしとたたかいの果てしなき日に父の文来し
弘前では、学校の生徒らがすべて、下駄か、わら草履を履くように指示がされたことを昭和十三年の父の手紙で知った。
革はすべて軍需にまわされたからである。
昭和十二年(一九三七)の七月に、日中戦争がはじまったのだから、その翌年には、庶民の暮らしが次第に苦しくなったことがわかる。
時計もなくなった。木綿、ふとんわたなど乏しくなった。
食料が次第にきゅうくつになり、主食の米、しょう油、みそ、塩など統制され、配給制がつよめられた。
碇ヶ関村にかぼちゃの買い出しに出かけた父は、遠い海辺の村にでかけ、塩と交換したと、闇でようやく食べ物を手に入れる日常を、手紙で知らせてよこした。
また、いくさが負けると、こんなインフレになると、帝政ロシアの札を見せて、となり組長の父は、戦時国債をさばいたらしい。
乏しいくらしの中から、やっと買った国債も我が国の敗戦ですべて紙くずとなった。
「鎮魂のうた」89-90p

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