命を阻むものはすべて悪ーカンボジア駐在の話

今日の朝7時から、Twitterでのライブ配信保健師LIVE」に出演の機会をいただきお話をしました。
MCから「どうしてこの映画に参加したのか」という質問をもらい、改めて「どうして関わっているんだろう」と振り返る機会をいただきました。
私は映画業界の人間ではありません。
国際協力NGOの職員のキャリアからスタート。国際協力NGOで仕事をしているので、20年間、NGO業界にいます。
映画「じょっぱりー看護の人花田ミキ」のことを思うと、1997年にインターンとして3カ月滞在し、その翌年の1998年から2007年までカンボジアに現地駐在していた体験が、私を突き動かしています。
長文となりましたが、カンボジア駐在のときの話を書きました。ご一読いただけると嬉しいです。

readyfor.jp12:32

疲れ切った銃後

北支から南支へと、戦線はのび切った状態で、結着もつかないうちに、今度はアメリカと戦争がはじまるらしいといううわさが流れたのは、昭和十六年(一九四一)の夏ごろであった。
果てしない泥沼の戦争をいつまでつづけるのか?という不安におそわれた。
中国河北省での勤務が解除になり、昭和十六年(一九四一)の夏からしばらく、ふるさとの弘前にかえり、いわゆる「銃後のくらし」を体験した。
そのころは、食べ物がない、着るものはボロボロ、履き物もない。庶民は疲れ切っていた。そのなかで、焼夷弾が落とされたら、バケツの水とナワの火タタキで消す訓練をする防空演習があったが、男性がいないので、老人や女性が駆り出された。
そして、となりぐみを通じて、つぎつぎと戦時国債が割り当てられて、乏しいふところから、なけなしの金を吸い上げていた。
ふるさとで、飢えと貧乏に苦しむ疲れ切ったくらしをしていた昭和十六年(一九四一)に、三回目の戦時召集をうけたのである。
「鎮魂のうた」96-97p

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泥沼の日中戦争

ふりかえれば、「宣戦なき戦争」といわれた昭和十二年(一九三七)の日中戦争のはじめに、私は、戦時召集をうけて病院船に勤務した。
そのときは、大連・北支秦皇(シンノウ)島・天津・溏沽(タンクウ)からの患者輸送であった。
上海事変(昭和十二年・一九三七)がはじまってからは、上海・南京・広東と、中国南方からの輸送がふえた。
前記対談によれば、上海事変は完全に中国の主導であり、日本軍の主力を上海に引っぱり出せば、蒋介石軍は、中国大陸を西へ西へと後退して戦線を拡大し、日本軍は泥沼にはまった形で消耗してしまう。
「結果として、まさにそのとおりになりましたね」(前記対談)
私の二度目の召集は、昭和十四年から昭和十六年(一九三九〜一九四一)まで、中国河北省石門に勤務した。
そのとき、つぎつぎと投入される日本軍は、広大な中国大陸に「点」として、中国軍に包み込まれる形で、押せど押せど、のれんに腕押し、日本軍の傷病兵は、中国の南西から東へと送られてきて、ふえる一方。
まさに「泥沼にはまった戦況」を、毎日の傷病兵たちの様子から、肌で感じ取られた。
「鎮魂のうた」95-96p

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「戦争の世紀」鎮魂のうた

Ⅴ 二十世紀におくる鎮魂のうた
草むせる水漬(ミヅ)くかばねのるいるいと重なり見ゆる二十世紀なりき 
【戦争の世紀】
間もなく、二十世紀は過ぎようとしている。
思えば、二十世紀は、戦争の世紀ということができよう。
十九世紀のおわりには、日清戦争(一八九四~九五)、二十世紀の幕明けに日ロ戦争(一九〇四~五)があった。日ロ戦争に勝ち、「日本は戦えば勝つ」というおごりをもった。
また、二十世紀のはじめには第一次大戦(一九一四~一九一六)があった。
次いで、わがくにの十五年戦争の発端といわれる満州事変(一九三一)がおき、つづいて上海事変(一九三七)、日中戦争(一九三七)がおこり、日米戦争(昭和十六年・一九四一)に突入した。
そのまま、全世界を敵とする第二次世界大戦、そして敗戦(一九四五)と、日本は激動の歴史を歩むこととなった。
最近、週刊ポスト(二〇〇〇・十二月八日号)を読み、『なぜ「負ける戦い」に踏み切ったのか』の、評論家・田原総一朗氏と日大教授・秦野郁彦氏の対談を見て、唖然とした。
時の近衛首相、東条首相、昭和天皇も含めて、負けると思って戦争をはじめているという。

それは、日本陸軍という怪物集団を退治するには、一度国をこわしてやりなおすしかない。つまり、はじめから負けることがわかりきっている戦争に、あえて突入していったということである。
盧溝橋(ロコウキョウ)事件(昭和十二年・一九三七)のあとも、必ずしも日本側に、中国本土を占領しようという明確な構想があったわけではなく、ずるずると深みに入ってゆき、拡大派といえども、半年後には「こんなはずじゃなかった」と後悔していたという。
「鎮魂のうた」93-94p

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#じょっぱり

 

手の記憶

「3年後、三陸のワカメを食べに戻ってこい」という漁師の手 
むじゃきな笑顔ではしゃぐ子どもの頭を愛しくなでるお母さんの手
津波で何もかもがなくなった。だから未練はない。あとは復興させるだけだ」力強く、固く握られた青年の手
避難所で手作りのお風呂を作るおじいちゃんの手
「この避難所におれが電気を灯す」といった電気屋さんの手
自分たちで炊き出しをしている避難所の、冷たい水でひび割れたお母さんたちの手
「けんか七夕を復活させる」という誓いを寄せ書きに書いた若者の手
図書館が開館したら子どもたちが喜ぶだろうと想像しながら、地震で床に投げ出された本を一冊一冊ていねいに棚に戻す図書館員の手
暖房もない冷たい避難所になっている体育館の床で、風邪を引いて寝ているおじいちゃんの肩を心配そうになぜているおばあさんの手
瓦礫となった家のまわりで思い出の品を探す家族の手
一カ月たって見つかった行方不明者。火葬場で祈りのための合わせられた僧侶の手。遺族の手
3月11日、その手には悲しい記憶が刻まれた。

おさまらない揺れに、机の下に隠れ、細い机の脚を必死に握った子どもたちの手
高台での工事作業中、向こうから迫りくる津波を見つけ、山の下にいる人たちに向かって「早く逃げろ」と叫び、振り続けた手
孫とお嫁さんと一緒に逃げたおばあさん。途中津波に飲み込まれ、「おめたちは生きろ」といて自ら振り払い津波に飲まれて言ったおばあちゃんの手
「助けて」と差し伸べた手
それをつかむことができなかった手
その手は、これまでも、そしてこれからも、どれだけの涙をぬぐうのだろう。
どれだけの悔しさのためにこぶしを握るのだろう。
我々が、にぎった手が、新たな記憶のはじまりになるように。
誰かと一緒に歩めると思ってもらえるように。
そしてその手を、離さないように。
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2011年4月2日から宮城県南三陸町気仙沼市岩手県陸前高田市、大船渡市をまわりました。現地入りしてから7日目の、4月8日に書いた詩。久しぶりに読み返しました。
3月11日の今日、静かに祈りを。

readyfor.jp07:58