疲れ切った銃後

北支から南支へと、戦線はのび切った状態で、結着もつかないうちに、今度はアメリカと戦争がはじまるらしいといううわさが流れたのは、昭和十六年(一九四一)の夏ごろであった。
果てしない泥沼の戦争をいつまでつづけるのか?という不安におそわれた。
中国河北省での勤務が解除になり、昭和十六年(一九四一)の夏からしばらく、ふるさとの弘前にかえり、いわゆる「銃後のくらし」を体験した。
そのころは、食べ物がない、着るものはボロボロ、履き物もない。庶民は疲れ切っていた。そのなかで、焼夷弾が落とされたら、バケツの水とナワの火タタキで消す訓練をする防空演習があったが、男性がいないので、老人や女性が駆り出された。
そして、となりぐみを通じて、つぎつぎと戦時国債が割り当てられて、乏しいふところから、なけなしの金を吸い上げていた。
ふるさとで、飢えと貧乏に苦しむ疲れ切ったくらしをしていた昭和十六年(一九四一)に、三回目の戦時召集をうけたのである。
「鎮魂のうた」96-97p

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