泥沼の日中戦争

ふりかえれば、「宣戦なき戦争」といわれた昭和十二年(一九三七)の日中戦争のはじめに、私は、戦時召集をうけて病院船に勤務した。
そのときは、大連・北支秦皇(シンノウ)島・天津・溏沽(タンクウ)からの患者輸送であった。
上海事変(昭和十二年・一九三七)がはじまってからは、上海・南京・広東と、中国南方からの輸送がふえた。
前記対談によれば、上海事変は完全に中国の主導であり、日本軍の主力を上海に引っぱり出せば、蒋介石軍は、中国大陸を西へ西へと後退して戦線を拡大し、日本軍は泥沼にはまった形で消耗してしまう。
「結果として、まさにそのとおりになりましたね」(前記対談)
私の二度目の召集は、昭和十四年から昭和十六年(一九三九〜一九四一)まで、中国河北省石門に勤務した。
そのとき、つぎつぎと投入される日本軍は、広大な中国大陸に「点」として、中国軍に包み込まれる形で、押せど押せど、のれんに腕押し、日本軍の傷病兵は、中国の南西から東へと送られてきて、ふえる一方。
まさに「泥沼にはまった戦況」を、毎日の傷病兵たちの様子から、肌で感じ取られた。
「鎮魂のうた」95-96p

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