つづけたケニー療法

進駐軍の支援で入手した資料は、ケニー療法であった。オーストラリアのナースのケニーが試み、成果を上げ、次いで彼女はアメリカにわたってひろめた療法であった。
ケニー療法とは、大量のお湯をわかし、そのあとマッサージをして筋肉を刺戴する方法であった、温浴も用いられた。
当時の八戸には上下水道はなく、病院にも水道はなかった。また風呂もない病院で、お湯を沸かすのも一苦労であった。
戦後の衣料も乏しかったころなので、温罨法するための布がなかった。また風呂もない病院で、お湯を沸かすのも一苦労であった。
戦後の衣料も乏しかったころなので、温罨法するための布がなかった。患児の母親たちの協力を得て、たんすの底から貴重品のウールの都腰巻をもってきてもらい、それを切って四角い罨法布をたくさんつくった。
病棟の看護の責任をもっていた赤沢婦長は、小児まひ看護チームをつくり私も力を合わせて、毎日ケニー療法をつづけた。
当時の東奥日報に乞われて私は看護法を書いているが、そのころの手当を知ることができる。 
小児マヒ家庭看護(東奥日報社調査部資料から転載)

今春来県下をおそった小児マヒもようやく終りましたが、患者の状態も慢性期に入り、いたいけな姿で足をひく子供が目につきます。この病気は経過が長いから家庭での看護はあくまで医師の指示に従うことです。処置を行うに当って二、三看護上の心得をのべてみます。 
▷ 急性期の疼痛、けいれんに対して温罨法を行うときは洗面器にお湯をたぎらせ、固くしぼってから皮膚にあてる。火傷の予防として油(椿油、菜種油でもよい)を薄く塗って行う。 湿布しぼりには厚地の木綿ものがよく、皮膚に当てる内側は羊毛のもの(毛糸の古い腹巻や セーターを利用する)その上を防水布(油紙、加工ゴム、セロファンなど)で被い、外側は内側と同じ布あるいはフランネル、木綿、毛布などを安全ピンで止める。関節は被わぬようにして、湿布の時間や位置は医師の指示に従い、湿布後は皮膚の水気を十分拭きとり乾いた布で保温しておく。
▷ 急性期にはちょっとした不注意で奇形を招くことがありますから掛けものには十分注意して、直接布団の重みが患部にかからぬようにし、患部はいじり回さぬこと。手足をもち上げるときには常に温いように気をつけ、筋肉はつかまず関節を持ち上げる。無暗と抱いたり、おぶったりすると回復期がおくれることが多いから許可なく這わせたり、歩かせたりすることは危険です。
患者は二才から四才までの幼児が多く、むずかったりして黙って寝ていませんが、絶対安静時には布団の上にヒモをつり、玩具類をつり下げたり、絵をはったりして慰める工夫が必要です。

▷ 皮膚の清潔には十分注意し、湿疹、あせものようなものから思わぬ余病を起しますから全身を一日一回お湯で拭き、あとを乾いたタオルで拭いて乾かす。
▷ 副木からよく床ずれが出来ますから絶えず皮膚に気をつけ、赤くなっていたら医師に知ら せて手当を受けて下さい。
▷ 運動練習が許可されて家庭でやらせる場合は童謡や手拍子で拍子をとり、自動運動をさせると幼児は興味を持ちます。
▷ 水分は十分与えます。離乳期にある幼児は母乳のみにたよらず、おかゆ、みそ汁、卵や果物を次第に与えて栄養が片寄らないようにする。聞きわけのない幼児であり、安静にしないし、泣くため親はすぐ抱いたり、おぶったりするので、折角の副木も使っていないようですが、幼児の将来を考え、心を鬼にして看護しないととり返しのつかない不具者をつくることがありますから、家庭看護は心を一つにして気長にやらなければなりません。
(昭24・9・30東奥日報
「ポリオ撲滅」巻き戻すフィルム

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外国ナースの支援

次々と半狂乱の熊で、手足が麻痺した乳幼児をいだいた母親たちが病院にかけ込んできた。
小児まひの患者は、小泉先生という温厚な青年医が担当していた。その小泉先生が、「小児まひの患者は、急性期をのりこえても、そのあとにのこる筋肉のまひは、生涯にわたって変形をのこすおそろしいものだ。しかし、わが県には、小児まひの予防も、治療も、後遺症に対する手当も、残念ながらない。婦長、何とかして占領軍のナースから、手当の方法を聞いてきてくれないだろうか」と言った。
もちろん、佐藤院長の許可を得て上京して、日本赤十字社の本社を訪ねた。この当時本社の看護課長は、林塩女史であった。
日赤の看護顧問としては、国際赤十字社から、オルソン女史が派遣されていて、全国の日赤看護婦の教育担当指導者の研修や、各支部病院を巡回指導をしたりしていた。
早速、林看護課長に私は、八戸の小児まひ患者の現状を訴えて、ぜひ外国の有効な看護法を教えてほしいと願った。
林看護課長はオルソン女史の援助を得て、すぐくに、当時の進駐軍指令部公衆福祉局看護課長オルト大尉(ナース)に支援を求めた結果、一冊の参考資料を貸してもらった。ところが、八戸にそれを持ち帰ることは許されなかったので、日赤本社では、急遽、東大の学生をアルバイトに雇い、その資料を三日間で日本語にほん訳させた。私はその資料を手にし、急いで八戸に帰った。
巻き戻すフィルム(花田ミキ著)より

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若ものたちのいのちを返せ

間もなく、日米戦争(昭和十六年・一九四一)がはじまった。
三日目の召集では、南方海域を含む病院船勤務で、死線をくぐった毎日であった。
北はアリューシャンから、南太平洋のガダルカナルラバウルまで戦線はのび、食糧・弾丸の補給路はズタズタに寸断された。
海のもくずと消えた艦船、兵士、船員は数知れない。
前記対談によれば「次第に、日本の政治、外交、軍事のすべてを握った軍部が自身をセルフコントロールできなくなった。マンモス化した軍部集団が動きがとれなくなった」という。そして昭和二十年(一九四五)敗戦。
打ちつづく十五年戦争で、わがくにの戦没者は三百十五万人。
内軍人軍属二百三十万人、民間人八十五万人。アジアでは二千万人といわれる。あまりにも犠牲が多かった。
多くの血と涙が流された。
前記の対談記事を読んで思ったこと。

これが真実なら、ひどい。
「聖戦」と信じ切って死んでいった多くの若ものたち。
戦死した無念。そして死したあとも、今の目で見る人たちから、ひとくくりに「侵略者の手先」といわれる無念。
「若ものたちのいのちを返せ!」と私は叫んでいた。
二十世紀のはじめに生を受けた私は、気力も体力も衰えて、残生も少ない。
しかし、二十世紀の戦争に参加したものとして、死者への義務がある。
鎮魂の思いをこめて、目にし、聞き、体験したことを、断片でもいいから残したいと思った。

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サードゴール1200万円、行きます!

みなさま、、、READYFORからメッセージがありました…。「ページ上で1200万円が必要であることを記載されていますし、残り2日ありますので」といわれました…。本当だ…。書いてある…。五十嵐監督にも確認しました。必要でした…。大変恐縮なのですが、サ、サ、サードゴール1200万円、行きます!
https://readyfor.jp/projects/hanadamiki

 

撮影風景

みなさん…気がついていますか…?クラウドファンディングのプロジェクトページに「撮影風景」の項目が追加されたことを…。またトップ画像でも撮影風景が見られることを…。実はちょっとずつ進化しているので、毎日見てくださいね
#じょっぱり #看護の人 #花田ミキ 

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