花田ミキさんは、青森弘前高等女学校(いまの青森県弘前中央高等学校)を卒業後、日本赤十字社盛岡看護婦養成所を経て、1934年(昭和9年)に日赤青森県支部に勤務しました。日赤時代は看護婦として青森県内の村々をまわり健康指導を行っていました。
昭和の戦前の青森県の状況はどのようなものだったのか「青森県史」にある資料を読んでいます。旧岩崎村(深浦町)・鰺ヶ沢町・今別町・蓬田村などの海岸に沿った地域の調査の結果がまとめられています。
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産育 第4章人生儀礼「西浜と外ヶ浜の民俗」

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はじめに
西海岸から陸奥湾に至る、旧岩崎村(深浦町)・鰺ヶ沢町・今別町・蓬田村などの海岸に沿った地域の調査内容が、この叢書には収められている。
産育習俗では、津軽の他の地域と比べて大きな違いはないようであるが、サントの巣で、座産で産んだ状況についての話を聞くことができている。深浦町正道尻では、昭和三年(一九二八)ごろに、わらでまわりを囲み、わらを敷いて巣を作り、座って産んだという。鰺ヶ沢町赤石でも、大正十五年(一九二六)生まれの人が出産した終戦前後に、稲わらを積んで囲んだものをサントの巣と呼んで、その中で座って産んだといい、鰺ヶ沢町種里では、昭和三十五年(一九六〇)に助産院で産んだときには、サントの巣のように新聞でまわりを囲んで産んだという。その後は、免許のある産婆や助産院が増えたことで、出産に関わる状況は変化し、子供の数も七~八人から、四~五人へと減少していった。同じく、マクラビキの風習についての認識も、その日数も、地域や家によって様々となり、やがて消滅していく直前の状況が語られている。サントの食事も、サントの仕事も、ほぼ同じような軌跡を描いているようである。
厄年の習俗では、どの地域においても、数え年で男は四十二歳、女は三十三歳で、厄年の祝い(厄払い)が行われている。現在では厄年の者が合同で、同窓会のように行っている。しかし、以前は、深浦町大間越のように、旧暦二月一日に、自宅に親戚や知人を招いて、神主を呼んでお祓いをしてもらっていた。また、今別町袰月では、昭和五十年(一九七五)ごろにも、数え四十二歳の男性が二月一日の未明に、近所の男児一人を連れて、賽銭とは別に四十二枚の十円玉などの小銭を持って、袰月の産土社<rubi うぶすなしゃ>である稲荷神社に参拝し、賽銭と小豆飯(赤飯)を供えたという。小銭は男児に与えた。厄年の女性も、同様に近所の男児一人を連れてお参りしたという。いずれも厄年にかかわる貴重な習俗である。
婚姻習俗では、終戦ころを境として風習に変化の生じたものがある。その一つは嫁の結婚年齢で、多くの地域で戦前は十六~十八歳が普通だったのが、戦後は二十二~二十三歳となった。通婚圏も以前は村内の者同士の結婚が多かったが、仕事に出る範囲が広がったこともあって、遠方から嫁を迎える者も増えた。ソエ嫁・ソエ婿の風習にも変化があった。今別町袰月では、ソエ嫁は五~六年生の少女だったが、ソエ婿は婿と同年齢の友人がシュウゲン(祝言)に並んで座ったので、夜に寝るときまで婿がどちらか分からなかったという。蓬田村中沢ではカタリ嫁・カタリ婿といい、昭和二十三年(一九四八)、昭和二十五年ともに両方ともいたが、同じ蓬田村でも広瀬では、昭和二十三年のシュウゲンでは両方ともいなかったという。中沢では昭和三十八年(一九六三)に公民館で挙式したときはカタリ嫁だけがいたといい、このころから、この習俗は消滅しつつあったようだ。鰺ヶ沢町赤石にあったカエリ婿も注意される。一人娘を嫁がせた場合、婿に兄弟があるときは、嫁いだ娘が、婿と一緒に嫁の実家に帰ってくることをいう。
葬制は、津軽の他の地域の習俗とほぼ同じであるが、その中で葬式の日程に変化のあったことが特筆される。今別町大泊では、昭和四十年代(一九六五~)までは、自宅で簡単に葬式をした後に、生身の遺体を入れたガンオケをガンダイに乗せて、八人で担いで行き、お墓で僧侶のお勤めをした後に、野焼きをして、夕方に骨を拾ったが、その後は、火葬をして、その晩に通夜、翌日が葬式へと変わったという。青森県内の多くの地域でも同様で、遺体のない無遺体葬が普通になっている。これは昭和四十年代ごろからボイラーによる火葬場が整備されたことにもよる。もう一つの大きな変化として、以前の大きな花輪が、生活改善運動と葬儀社が入ったことによって、新聞紙一頁ほどの紙に印刷されて、貼られるようになったことがある。花の代金の残りは遺族に渡ることになり、合理的ではある。墓での供養・作法として継続されてきたヤシキ餅・引っ張り餅の習俗も、石造りの墓へと整備されたこともあって失われつつあるようだ。
〔豊島秀範〕
1 妊娠
妊娠
妊娠したことを「子供できた」「オボコ(赤子)入った」という。妊娠すれば必ず産むのが普通だった。子供を産まなければ婚家から出されることもあった(今別町奥平部)。
腹帯
一般に三か月目(深浦町正道尻)や五か月目(鰺ヶ沢町赤石・種里、深浦町沢辺、今別町大泊・袰月)にさらし(さらし木綿)を使い腹帯を巻く。一反や半反のさらしを使った(赤石、正道尻)。大正時代の人は一寸五分から三寸の幅のものを使った(奥平部)。腹帯を巻く日に祝いをしなかった人が多い(赤石、蓬田村広瀬)。お宮へさらしを持って行って拝んでから使った人もいる(正道尻)。戌<rubi いぬ>の日にさらしを巻いた人もあり、戌の日に巻くとお産が軽いという(沢辺、蓬田村中沢)。
腹帯の巻き方は母親(赤石・種里、大泊)や産婆(正道尻)に教えてもらう。大正十四年(一九二五)生まれのある人は産婆に岩田帯を巻いてもらって、いくらかお礼をした(袰月)。産んでからも、さらしをぎっしり巻いた。そうしないとおっぱいがたまらないといった(沢辺、奥平部)。
腹帯はタナ(負ぶうのに用いる布の紐<rubi ひも>)にして子供を負ぶった(正道尻)。夫が旅に出るとき腹帯を持たせてやった人もいる(奥平部)。
ツワリ
クセヤミ(赤石・種里)・クセヤメといい、医者にも行かなかった(袰月)。「病気でなくてクセヤミだ」といわれる(赤石)。クセヤミに負ければ、行商の売薬を飲んだ(種里)。クセヤミはなかったという人も多い(赤石)。
食事
妊娠中に筋子を食べると子供の頭に「アブラたかる(こびりつく)」から食べてはいけない(種里、沢辺、中沢)、柿は渋があるので産道に渋がかかる(中沢)、とくに、庭に植えるシブという小さい渋柿は食べてはいけない(種里)、タコやアワビは吸いつくから食べてはいけない(沢辺)といわれた。
妊娠中の仕事・養生
働いた方が体によいといわれ、出産の前日まで働いた人が多い(種里、沢辺・正道尻、奥平部)。荷物を背負ったり、田の草を取ったりした(正道尻)。肥やしを背負ったり、海や山の仕事も普通に働き、腹が病んできて初めて休んだ(奥平部)。腹が大きくなれば産が重たいというので、床を拭<rubi ふ>かせた(赤石)。一日三回掃除して、床も三回拭き掃除をした人もいる(種里)。出産予定日より遅れたとき、大豆をまいて妊婦にしゃがんで拾わせた。ある人は仕事が激しかったので、畑に行ったときに坂で病んで翌日の夜明けに出産した(赤石)。
「手を挙げるな。挙げると子供の首に胞衣<rubi えな>が絡まり難産になる。産まれてから乳があがる」という。重いものはタナゲテ(持ち上げて)はいけないともいった(赤石)。
安産祈願
子安様は聞いたことがない(沢辺)。安産祈願に特別な事はしない(種里、沢辺・正道尻、奥平部)。とくに祈願はしないが、お寺に行ったり、神社にお願いしに行った(広瀬)。
安産の神様は岩木山神社で、妊婦本人が車で行って拝んだ(赤石)。子供が生まれるようイタコに見てもらい、「男でも女でも宝物が産まれますように」と祈った(袰月)。子授けの神様は聞かない(赤石)。
サントの神
正道尻の貴野神社を地元の人は地蔵様と呼び、サント(妊産婦)の神であるという。旧暦六月二十四日、貴野神社にお神酒とろうそくを供える。貴野神社の地蔵様を軽く持ち上げると安産になる。十二湖駅に入る少し手前の右手に子持神があり、下方の地蔵様に三つの大きな石が立っている。この石に米を袋に入れて供え、乳をなでて持って帰り、米をお粥<rubi かゆ>に炊いて食べると乳が出るという。
妊娠中の禁忌と俗信
妊娠しているとき、葬式に行ってはいけない。葬式に出るときは、はさみや鏡を着物の中や懐に入れて出る(赤石・種里)。葬列などを見てはいけない(種里)。妊娠している本人は葬儀に出てはならない。死者を送ることはできないが、葬儀のある家に行くのはいい(沢辺)。
火事になれば赤あざがつくとか、火事を見れば背中にあざがつくという(赤石、沢辺)。田をならすエビリをまたげば、子供に障害が出る。ある人は長男が産まれるとき、魔物が来るからといって刃物を置いた(中沢)。
2 出産
子供の数
兄弟の数の例を挙げると、大正十四年(一九二五)生まれで六人兄弟(大泊)、二つ、三つ違いの一〇人兄弟(袰月)、昭和三年(一九二八)生まれで九人兄弟(正道尻)、昭和十一年(一九三六)生まれで一一人兄弟(大泊)、昭和十四年(一九三九)生まれで七人兄弟(沢辺)の人がいる。昭和十七年(一九四二)ごろ生まれた人は、兄弟が五、六人はあった。親の世代は一一人、一二人兄弟がいる人が多かった(広瀬)。
子供の数の例を、出産した母親の生まれ年で挙げると、大正八年(一九一九)生まれで八人(今別町西田)、大正十一年(一九二二)生まれで四人(深浦町大間越)、大正十四年生まれで四人(袰月)、大正十五年生まれで四人(赤石)、昭和七年(一九三二)生まれで四人(正道尻)、昭和九年生まれで三人(赤石)、昭和十五年(一九四〇)生まれで四人(赤石)、昭和十六年生まれで二人(奥平部)の子供を産んだ。昭和十七年ごろ生まれた人は子供を三、四人産むのが普通だった(広瀬)。
出産の場所
自宅で出産し、子供は夜産まれることが多かった(大間越)。普通はお産は実家でする(袰月、広瀬)。とくに初子(最初の子供)は実家で産んだ(赤石・種里、沢辺・正道尻、奥平部)。初子は二か月実家へ帰る。昭和十四年生まれの人の妻は、秋田県能代市の病院で出産した。二人目のとき、出産後一か月ごろ魚を持って嫁の実家へ見舞いに行った(沢辺)。
大正十四年生まれの人の場合、袰月には、免許のある産婆がいなかったので、三人目まで実家のある外ヶ浜町磯山で免許のある産婆に頼み出産した。四人目は昭和三十二年(一九五七)、袰月に免許のある産婆がいたので、婚家で産んだ(袰月)。昭和十七年(一九四二)生まれの人の例では、初産の一か月くらい前に実家へ帰り、五〇日実家へいた。青森市の個人病院で産んだ。二番目は、地元の婦人会の副会長が助産婦だったので頼んで、婚家で産んだ。三番目は具合が悪かったので青森市の県病(青森県立中央病院)で産んだ。普通は助産婦へ頼む(中沢)。昭和十二年(一九三七)生まれの人は、二人目のとき難しいお産だったので、五所川原市の病院で産んだ(種里)。具合が悪いと鶴田病院や青森市産婦人科、東青病院など病院に行く(広瀬)。
昭和十二年生まれのある人は、昭和三十四年(一九五九)に助産院で産んだ。このときはサントの巣のように新聞でまわりを囲んで産んだ(種里)。昭和二十二年(一九四七)生まれの人は、産婆の家で出産し、その家では一週間おいてくれた(正道尻)。
出産
出産した人をサントと呼んだ(沢辺)。昭和三~九年(一九二八~一九三四)生まれの人は、自宅で寝て産んだ(赤石、正道尻)。ある人は、昭和三十年(一九五五)、産婆が来ないうちに産んでしまい、頑張ったのでつかまっていた手を開けなかった。産んだ後、バケツにお湯を入れて足を洗った。出血が多かったが、柿崎助産婦は足を高くさせ、頭を低くして、お腹を冷やした。病院は今別本町にあったが、行かなかった。昭和三十七年(一九六二)に出産したある人は、障子を一昼夜ながめて頑張り、柿崎助産婦の手をつかんで寝て産んだ(奥平部)。大正十四年(一九二五)生まれの人は、荻野<rubi おぎの>式(荻野学説に基づく受胎調節を行う方法)の産児制限を実行して基礎体温を計った。子供は授かりものといわれたものだった。初産は昭和二十三年(一九四八)で、今別まで歩いて行き、産まれるまで毎月検診をした。寝てお産をした(袰月)。
昭和七年(一九三二)生まれの人は、姑<rubi しゅうと>が四十二歳でお産をしたので、一緒にお産をした。嫁と姑と同じ年にお産をする人も多かった(種里)。
座産
昭和三年(一九二八)ごろ出産した人は、わらでまわりを囲み下にわらを敷いて巣を作り、座って産んだ(正道尻)。わらを敷いて上にシーツをかけ、上からのタナ(幅広の布の紐)をつかんで踏ん張って座って産んだ(沢辺)。大正十五年生まれの人は、稲わらを積んで囲んだものをサントの巣と呼んで、その中で座って産んだ。昭和九年生まれの人の場合は、ワラシビ(わらの葉や茎の外皮などの柔らかい部分)を敷いてシビ布団に合羽を敷き、その上に「投げる(捨てる)」ようになった衣類や古着のボドを敷いた。テカケババ(産婆)が手をつかんで腰を抱えてくれ、母親も手伝って、座って産んだ。サントの巣は使わない(赤石)。米の俵を体のまわりに置き、下に切れ(布)を敷いて一週間座ったままだった。おりものを下に下ろしてしまうためだが、こうして産んだ人は、足が痛んだ(袰月)。昭和二十三年に出産した人は、天井から下ろした綱につかまって出産した(大泊)。昭和二十四年ごろ初子を産んだ人は、素人の産婆で座ってお産をした。天井から麻で編んだ紐を下げ、布を巻いてつかまって産んだ。この紐を「綱不知(つないらず)」という(奥平部)。
難産・産褥熱<rubi さんじょくねつ>
難産は聞いたことがない(赤石)、めったにない(種里)というが、難産になると大変で、お産で亡くなった人もいる(種里、正道尻)。難産は「サントで死んだ」という(沢辺)。産褥熱になった人は、布団を七、八枚かけても震えが止まらなかった(正道尻)。
難産のときは、深浦町岩崎の産婦人科まで戸板に乗せて行った(正道尻)。岩崎の神馬医師に行った(沢辺)。「たつべのボサマ」と呼ばれた菊池という人は、難産のときに来て注射や鍼<rubi はり>を打った。赤ん坊を取り上げたりはしない。ちょっと具合が悪いときに医者の代わりをした(沢辺)。
堕胎
水子は多い。子供が多いと恥ずかしいといい、年を取ってからだと、とくに恥ずかしく思う。お寺参りをする人の中では水子供養が多い(袰月)。戦後は医院で中絶することがよくあった。産児制限保健婦が指導した(赤石)。山のシコロ(黄はだ、樹皮は黄柏<rubi おうばく>)をかじれば子供が流れる。授かる子供は流れないという(奥平部)。
後産・へその緒
へその緒は「投げて(捨てて)」しまった。胞衣は腐ってしまうように、トヤマ(肥やし盛り)に穴を掘って埋めたり、テカケババがまとめて捨てた(赤石)。産婆が始末した(種里)。後産が出ない人は柄杓<rubi ひしゃく>の柄を口の中に入れると、「げっ」となって後産が出る(奥平部)。胞衣(後産)の始末は母親がやった。お日様の見えないうちに裏の木の下に埋めれば、子供の夜泣きが止まるという(奥平部)。
昭和十六年(一九四一)生まれの人の場合、長女のへその緒は、取れるまでつけておいて、胞衣と一緒に捨ててしまった。長男のへその緒は、本人が白血病になったときに使うために取っておいた(奥平部)。昭和四十五年(一九七〇)に産まれた子のときはへその緒をもらった(種里)。
産湯
産まれて三日目に木のたらいに湯を入れて、母親や家の人が産湯を使わせた(赤石)。三日目に産婆が来て産湯を使わせる(大泊・奥平部)。産湯は一斗入るテドリ(鉄瓶)に湯を沸かして、たらいに入れる(袰月)。
産婆・テンガク
お産は地元の産婆へ頼み、経験のある人に頼む場合もある。夫は手伝わなかった。昭和二十~三十年(一九四五~五五)ごろは地元に産婆が三人、岩崎に菊池産婆など三人いた。大正十三年(一九二四)生まれの人の場合は、初子を朝鮮で一人で持った。二番目からは沢辺でテンガクババで、最後の子供のときは助産婦で布団に寝て産んだ(沢辺)。
大正十五年(一九二六)生まれの人は、初子を実家の弘前市十腰内でテカケババで産み、二番目は助産婦、三番目は「チョウジャの婆さん」と呼ばれたテカケババに頼んだ。赤石にいたチョウジャの婆さんは、まだ産まれないときは楽にさせて、産まれる寸前に頑張らせる。まだまだ早くには頑張らないと声をかけ、障子の骨が見えなくなるまで病んでくれば産まれるという。早くから頑張ると疲れるので、上手にころ合いを計るよい産婆だった。昭和九年(一九三四)生まれの人は、一人目は実家でテカケババ、後の二人は片山助産婦に頼んだ(赤石)。
昭和三十年(一九五五)前後、種里にはテンガクババしかいなかった。昭和七年生まれの人は、実家のつがる市木造で産婆に頼み、種里ではテンガクに頼んだ。テンガクババの場合でも、寝て産んだ。産婆は産まれたときと、二、三日してからと二回来る(種里)。
昭和二十年(一九四五)ごろは、袰月には助産婦はおらず、取り上げてくれるお婆さんが二人いた。夫が産婆代わりをする人もいた(袰月)。大正十五年生まれの話者の母親が素人の産婆だった。村中の人が世話になり、出生届はこの素人の産婆の判子でよかった。取り上げた子供は一〇〇人を超えている。地元には素人の産婆がもう一人いた。昭和十六年(一九四一)生まれの人は、袰月の免許を持つ柿崎ふじゑ産婆に頼んだ(奥平部)。ある人が昭和三十五年(一九六〇)に出産したときは、免許なしの産婆もいたが柿崎産婆に頼み、家で三人とも布団の上で出産した(大泊)。
外ヶ浜町蟹田には余地産婆がおり、地元には越田ナミ産婆がいた。電話は二軒しかなかったので、腹が病んでくれば夫が迎えに行った(広瀬)。
産婆のお礼
産婆へのお礼は反物だった(大間越)。昭和二十年代、マクラビキのときに産婆に二五〇〇円から五〇〇〇円のお礼をした(正道尻)。名づけの簡単な祝いのときに、テカケババに心しだいのお礼をした(赤石)。素人の産婆だった母親は、わずかにお礼をもらった。人助けのつもりで仕事をしていたという(奥平部)。三週間目ごろお膳についたものを産婆に持たせてやって、お礼をする(袰月)。
赤ん坊の呼び名
ワラシ(大間越、奥平部)・アカゴ(種里、中沢)という。産まれてすぐの子供はワラシという。昭和十一年(一九三六)生まれの人は子供といった(大泊)。
名づけ
一週間以内につける(沢辺・正道尻、大泊・袰月、中沢)。二週間以内に届ける(沢辺)。父親が名前をつけた(正道尻)。男の子は祖父、女の子は両親が名前を決めた(袰月)。夫婦でつけたり、祖父母が口出ししたりする(中沢)。
祝い事はしない(沢辺、大泊、中沢)。名前を書いて神棚に供えるくらいだった(沢辺)。初子は親がつけて、祖母が赤飯を炊いた(赤石)。名づけは簡単につけたり(赤石)、いい加減にしたもので、一か月もつけない家もあった(沢辺)。キクのキは親の名前のキをつけた。ほかにチヨ・チツなど、キやチがつく名前は、重宝な名前だった(沢辺)。マクラビキ
マクラブキは、二一日過ぎてから親戚の人を呼んで、お膳にご馳走をこしらえて祝った。産婆は呼ばない。テンガクは呼んだ。初子のときだけ、タイの菓子、「めでたい」のタイを二枚ずつ注文した(沢辺)。七日目にお湯で洗ってマクラ(枕)から上がった。産婆を呼んでご馳走をして、家の人がお膳で子供に食べさせる真似をした(正道尻)。三日目にマクラビキをして三〇日や七〇日にサンアガリをする(赤石)。寝ている状態やあるいはスッコ(巣)に入っている状態から起きてくることを、「マクラから上げる」という。このときに赤ん坊に産湯を使わせ、母親の手足を消毒して拭いてくれる(種里)。マクラアゲは三日目にお産の部屋から上がる。このとき夫がお湯を沸かして準備をし、赤ん坊に産湯を使わせ、産婦は皆のいる部屋へ出る(袰月)。
出産に関わる禁忌と俗信
お産のときは漁にでない(沢辺、広瀬)。漁は三日から一週間休む。今でもお産のとき、漁師は漁に出ない(沢辺)。村の人たちはお産は汚れているという。一般に漁師の夫はよそへ泊まる(袰月)。
今でも「柱建てに行くな」「不幸の家に行くな」という(広瀬)。産んでから一週間目に床上げするまで葬式に行ってはいけない(沢辺・正道尻、中沢)。漁師は死んだとき(葬式)よりお産を気にする(沢辺)。
サントのにおい(血のにおい)がするうち、二一日が過ぎないとサントは人前に出ない(沢辺)。サントは食事の支度をする火や食べるものを、他の人と別にする。「巣マジャル」といい、お産のあった家で煮たものは食べてはいけない(沢辺、奥平部)。シ(巣・火)悪いという。シから上がるときに、餅をついたりおはぎなどをもらってお祝いをする。漁師をしている夫は、五~七日産婦に近づかないが、死んだところ(葬式を出した家)へは行ってもよい。産婦が巣からあがれば、近づいてもよい(奥平部)。
神には触れない(沢辺)。神様は三日過ぎれば拝んでもよい(正道尻)。
産の忌みは聞かないといったり(種里)、お産はめでたいという人もある(袰月)。
産婦の食事
炭で焼いた塩とお粥を三日間(沢辺・正道尻、奥平部)、二、三日から一週間(種里、正道尻)、三〇日くらいまで(袰月)食べ、その後ご飯を食べる。一〇日間から二週間、鰹節<rubi かつおぶし>を削って出し(出し汁)をとり、ホタテの大きな貝殻を鍋にして作ったカヤキミソ(貝焼き味噌)を食べた(赤石、沢辺・正道尻、袰月、広瀬)。出しに味噌や卵を入れたり、塩で味つけをしてカヤキミソを食べる(種里、正道尻)。食べるものに気をつけないと「腹病む」という。日数がたったら、卵味噌にした(沢辺)。砂糖をつけないビスケットや白い野菜とお浸しを食べた。鰹節のカラツユ(具のない味噌汁)は「チッコ(乳)出るはんで」といって食べさせられた(正道尻)。
小豆やカボチャなど、あたるものや塩辛いものを食べれば、出血したりおりものをしたりする。ジャガイモ・餅・ビスケット・せんべい・飴は食べた(赤石)。サントが食べてもよい魚はカレイやカナガシラで、ナスや生水は悪い(種里)。カヤキミソにカナガシラ・カレイなどを一回焼いて入れる(正道尻、袰月)。生の魚を入れると身がくずれ消化によくない。子宮がおさまるまで、リンゴはすって食べる。天ぷら・かまぼこはよくない。柿は冷えるので、食べるとチヤマイト(血病人)になったり、おりものをしたりする(袰月)。青い魚はよくない(広瀬)。八月ごろ、アワビやサザエを捕って産婦に食べさせた(大間越)。
何でも食べたという昭和十四年(一九三九)生まれの人もいる(沢辺)。
産後の仕事・養生
一週間は体を横にしないで、膝を立てて座っている(正道尻)。二一日過ぎるまで外に出られない(正道尻)。産後三〇~六〇日ほどは産婦の体を大事にして仕事をさせない(種里、沢辺・大間越、袰月・奥平部)。とくに初子のときは大事にする。産をしくじれば病気になるという(奥平部)。座敷で寝たり起きたり、赤ん坊を扱ったりした(赤石)。産後四〇日ごろ婚家へ帰る(沢辺・袰月)。
高いところに手を挙げると乳あがるという(袰月、広瀬)。重いものを持つと子宮が下りるという(種里、袰月)。冷たい水にも手を入れない(種里、沢辺)。手袋をつけたり(沢辺)、足も冷やさない(種里)。
一か月が過ぎるくらいまで、親が手伝いに来てくれたり(沢辺)、実家の母親や姉妹、夫の姉妹が手伝ってくれた(種里、正道尻)。三週間くらいで、産婦がおむつを洗ったり洗濯もした(中沢)。店をやっていた人は、一〇日目に普通の飯炊きをして、一八日で水仕事をし、二一日で普通に働いた。無理なことばかりして「ナス(子宮)下がった」という(沢辺)。大正八年(一九一九)生まれの人は、厳しい姑だったので、一週間しか寝かせてもらえず、お粥を自分で煮て、たくあん(沢庵漬け)三切れ梅干し一つで食べ、姑は何も作ってくれなかった(西田)。
トイレは外だったので、買ってきたおまるを使った。おまるの外は黒、中は赤の漆塗りで手がついている。裾風邪(足下が冷えることからくる風邪)をひかないようにする(正道尻)。風呂は木の樽を寝床に持ってきて、立膝で裾(腰から下)を洗った(奥平部)。
3 子供の成長と祝い
産着・シメシ
産まれる前に、赤と青など麻の葉模様の産着を作る。産まれてすぐは、ネルの襦袢<rubi ジュバン>、ガーゼの肌着、毛布でくるんで紐で結んだ(正道尻)。産まれたときに着物の切れで産着をお祝いにもらい、休んでいる間に産着を縫う。産後は休まなくてはならないので、針を使えば目を悪くする(袰月)。
おしめはシメシという。おしめはさらしなどの反物や丹前下・浴衣・シーツなどをほぐして縫った。古い布を二~数枚重ねて袋にしたりして縫う(沢辺・正道尻、袰月・奥平部、中沢)。三〇~四〇枚作った(沢辺)。おしめに紐をつけた。子供が少し大きくなると、合羽でカバーを作った(奥平部)。青森の店でさらしを二、三反買ってきて輪にしたおしめを作った(中沢)。
おしめは海や川で手で洗い、縄を張って干した。(沢辺・正道尻、奥平部)。固形石けんを使い、冬は家の中で生ぬるい湯で洗った(正道尻)。冬になるとおしめをこたつで乾かしたり(袰月)、薪<rubi まき>ストーブの上で針金にかけたり(奥平部)、家の中に縄を張って乾かした(中沢)。かぶれないように赤ん坊のお尻に天花粉<rubi てんかふん>をつけた(奥平部)。田でおむつを洗って、草の上に置いたり綱を張って乾かした。暖かくなっている石の上へ置くとよく乾く(中沢)。
母乳が出ないとき
昭和初期は、母乳の出る人が飲ませてやったり(沢辺)、乳もらいに行った(種里)。母乳が出るようにタオルを熱くして乳を暖めたり、へらや草履の底をあぶって暖めて、乳に当てたりした(沢辺、袰月)。乳がはれることを乳パリという(袰月)。母乳が出ないときはミルクを足した(袰月・奥平部、広瀬)。大正八年(一九一九)生まれのある人は、麦粉をゆるく煮て哺乳瓶で飲ませた(西田)。つば釜(羽釜)でご飯を炊いて、ぷくぷく上がってきたものを飲ませる。「ママのニラ」という。粉ミルクはあったが、使わなかった(赤石)。お産をした後、母乳が出るように、餅を食べろといったり、乳の下をきつくさらしで締めたりした(中沢)。紐を巻く場合もあり、自分で布を縫って乳の下に巻いた人もいる(沢辺、奥平部)。
母乳の祈願
米を三軒か四軒からもらって、深浦町北金ヶ沢の大イチョウに持って行く。イチョウの木に下げて祈願し、ご飯を炊いて食べると母乳が出た(種里、沢辺)。
誕生の祝い
子供の祝いは何もしない(種里、沢辺、大泊、中沢・広瀬)。正月に赤ん坊を負ぶって稲荷神社へ行ったり(大間越)、親戚がお祝いの包みを持ってくるくらいだった(西田)。お祝いに切れやお金、麻の葉模様の生地やネルの襦袢をもらった(沢辺)。子供服の布やベビー服などお祝いの品をもらって、お互いにやり取りした(中沢)
マゴイワイ
初子だけ、一か月してから親戚の人を呼んでマゴイワイをする。男女四〇人くらい呼んで祝った(大間越)。五〇日目に兄弟や親などを呼んでお祝いをした。着物・反物・産着をお祝いにもらった。初めての男子だったので、雲平<rubi うんぺい>の赤いタイを二枚、深浦に注文した。四〇日から五〇日過ぎればお祝いのお返しをした(正道尻)。産まれて四〇日たって婚家へ帰ったときに、夫の同級生や親戚三〇人くらいを呼んで、一日お祝いをした。子供によい着物を着せてわらのエンツコ(幼い子を入れておく用具)に入れた。お膳やめでたい饅頭<rubi まんじゅう>やお餅を用意した。四番目の子は一か月目にお祝いをし、助産をしてもらった免許のある産婆を呼んだ。産婦本人は割烹着を着て台所に立ったが、実家の母はそれを見て驚き、体は大変ではないかと心配した(袰月)。
成長の祝い
食い初めはしない(沢辺)。お宮参りはしない(西田・袰月)。七五三もお宮参りもしない(赤石、沢辺、中沢)。一歳の誕生日を家の中だけでやった(袰月)。
一歳の誕生日(沢辺)や誕生日前に歩いたときに、一升の餅を風呂敷に包んで袈裟<rubi けさ>懸けにかけて歩かせる(種里、大間越)。早く歩くと行き過ぎるとか出しゃばり過ぎるといって、歩けば転ばす(広瀬)。一般の家ではほとんど一升餅はやらない(大間越、袰月、中沢)。
エンツコ
昭和三十年代(一九五五~)では、ほとんどの家でエンツコを使い、産まれればすぐに入れた。
わらで編んだものは、暖かく赤ん坊のためにはよい。朝、エンツコに入れるとそのまま置いておき、母親は昼に帰って来て母乳を飲ませた(広瀬)。肩から縄をかけて動けないようにして、一人で置く(種里)。長い布団を作ってくるんだり(奥平部、中沢)、布団と一緒にタナ(負ぶい紐)で縛って、田のあぜにも連れて行って作業した(沢辺)。
エンツコはわらで家の人が作った。木のエンツコは地元にある桶屋が作った(沢辺・正道尻、奥平部)。エンツコはわらで舅<rubi しゅうと>が作った。作れない人は買った(種里)。行李<rubi こうり>に入れる人もいる(袰月)。
子守
祖父母が孫の世話をした(大間越、中沢・広瀬)。祖母が負ぶって、母乳をもらいに田へ行った(大間越)。下の子供の面倒を上の子が見た。大正十三年(一九二四)生まれのある人は、十一歳のとき函館へ子守に行き、着るものをもらって食べさせてもらった。大正十五年生まれのある人は、小学校五年生で深浦町驫木<rubi とどろき>へ子守に行った(沢辺)。長男が産まれたとき、給料をかけて十四、五歳の親戚の人を子守に頼んだ。学校へ弟や妹を連れて来て子守をする子供もあった(袰月)。夫婦二人で漁に出たある人は、近所の人に子守をしてもらった(奥平部)。住み込みの女の人に子守を頼んだ家もある(中沢)。
疳<rubi かん>の虫
疳の虫が強いときは、体がぴんと張って歯をかんでいる状態になる(大間越)。疳の虫や夜泣きのときは、能代市のカミサマにお祓いをしてもらったり、見てくれる男の人のところへ連れて行った(沢辺)。蟹田のカミサマに連れて行ったり、日蓮宗のお寺に連れて行ってお経を上げて拝んでもらう(広瀬)。疳の虫には救命丸を飲ませた(正道尻)。疳の虫のときは真綿にニンニクを入れて首に巻く(大泊)。
子供の遊び
ビダ・パッチ・ズグリ(独楽)マワシ・アヤコ(お手玉)・イチョコ(おはじき)・陣取り・まりつき・綾取り・ビー玉・剣玉・縄跳び・豆すくい・タイヤまわし・竹馬をして遊んだ(種里、沢辺・大間越、奥平部、中沢)。
台風の後の波に「波上がりに行くぞー」と皆で誘って行った。津梅<rubi つばい>川でも泳いだ(大間越)。子供たちだけで四月二十五日に餅を腰につけて、「天満天神菅原道真公」といいながら、岩崎の駅の向かいの焼山へ登った。海で泳いで、白島・黒島へ泳いだ。泳ぎは自然に覚えた(沢辺)。男の子は男性の仕事を手伝う。女の子は女性の仕事を手伝う(種里)。「ジンジョ跳ね」は上っ張りに黒いパンツで高い岩から飛び込む。船のスベリ(木の板)につかまって遊ぶ。ツブを捕ったり、カサギやマルゴ(黒い貝)を捕る。シルケの貝で遊ぶ。「一べ二べ」といいながら石を投げる(奥平部)。冬に、七輪でせんべいの型に餅を入れて焼いた(中沢)。
〔長谷川方子〕

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