凶作の村

昭和九年(一九三四年)~一二年
村々をまわる
農村の巡回看護婦たりし日の二・二六は雪深かりき
経(へ)めぎりし農村はみな貧しくて胸病む娘(こ)らのかくされていし
娘を売るな村々にビラはられが夜半に女衒(げぜん)が戸をたたきしと
娘(こ)らつれて落ちるを防ぎ横並び鉄橋渡る人買いありき
若くして紡績女工胸病みてあまたの娘(こ)らの故郷(くに)に帰りき
ノミシラミはい上がるらし体温をはかるとねべやに坐りいしとき
ワラ敷きしねべやに胸を病みし娘は紅き頬して熱高かりき
オホという濁酒も出でてにぎわいし炉辺に巡査も加わりていき
欠食児弁当なくてかくれいし昭和九年は凶作なりき
患者らに「米一升」と処方してひそかに渡しき岩淵医師は(車力村の医師)
乳涸れし母親たちに保健婦は山羊を飼えよとすすめまわりし
昭和八・九年の青森県は、大凶作であった。「凶作になると東京に吉原には身売りした青森訛の娘がふえる」といわれた。
当時の日赤支部では「無医村巡回診療班」を組織して、凶作地の農村の巡回診療を行なった。
新卒の私も、そのメンバーに加わった。毎年寒冷の一月から始めたが、貧寒とした農村の実態にじかにふれて、衝撃を受けた。
たべものを買い、医療費を払うために娘たちを売らねばならなかった親たち。身売り防止の働きかけは無力であった。
また、前借をして、紡績女工となった娘たちは、つぎつぎと結核になって帰されてきた。此のあと、青森県にはたちまち結核がひろがった。
まだ、保健婦はなかった時代、必要に迫られて、ねべやにひそかにかくされていた娘らを訪ねた。結核患者がいると知られれば村八分になり兼ねない時代であった。
患者は、押入れのようなところにねていた。窓もなく、ジメジメしたふとんに、熱気と臭気につつまれてやせ細っていた。
「栄養をあるものを食べよう」という私のことばが、空しくてならなかった。
凶作になると、小作農のほとんどは自家でたべるものがなくなった。男たちも出かせぎや、借子になった。
前借金を受けての年季奉公をするカリゴは、私の小学校のクラスにもあった。
小学を卒業してすぐカリゴになった同級生が、クラス会の寄せ書きに「カリゴはつらい」と書いた。カリゴの寝部屋はマギといって、牛や馬小屋の屋根裏であった。
昭和十一年(一九三六年)の二・二六事件につづいて翌昭和十二年には、日中戦争がはじまった。農村の余っていた労働力は、たやすく戦争に、そして大陸の植民地政策に吸収され、利用されて行ったと思っている。
若いころ、へき地を歩きまわり、村の人たちのくらしを肌で知った。
土にしがみつく老人のしわばった手や、やせたこどもたち。小作農の苦しみ。その実感のなかから、ふるさとの病人がふえてゆく背景を知った。そして、しみじみと、北の荒い風土に生きるふるさとの人々に限りない愛情をおぼえた。歩いたり、スキーを使ったり、馬そりにのったりしてまわった。
吹雪の日に、汽車が停まったと聞いて、線路をたどっていたら、ラッセル車のひびきが聞こえ、鉄橋のうえから片足踏みはずしたときの恐怖はいまも忘れない。
花田ミキ著『燠なお消えず』5-10p

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