花田ミキさん経歴

人々の命を守るため、尽力し続けた花田ミキさんの経歴を改めて紹介させてください。
私も青森県民ですが、花田ミキさんがいなかったら、乳幼児死亡率が全国の中でも高かった時代、生まれていない可能性もあると思い感謝を込めて映画の仕事をしています。
1937~43年
日赤青森県支部 救護看護婦
日中戦争、太平洋戦争に従軍看護婦として3回召集される。この時「命を阻むものはすべて悪」という信念を持つ。
1947年
八戸赤十字病院 看護婦養成所婦長
日本産婆看護婦保健婦協会青森支部(現在の青森県看護協会)設立
1949年
1949年6月8日、八戸市でポリオの集団感染が発覚。ワクチンがない時代、花田ミキは単身上京。占領軍のナースから「ケニー療法」の情報を得る。看護チームをつくり実践をしただけではなく、新聞に予防法を掲載し、人々に予防の大切さを説く
青森県庁 衛生部(環境保健部)係長
1950年
青森県庁に創設された衛生部看護係の係長として白羽の矢が立ち着任。女性初の係長。住民を重視するあまり、県庁時代は上層部との摩擦も多かった
1952年
日本の看護教育がアメリカなどよりもはるかに遅れていることや、看護婦を社会的に専門職として認められていない状況を変えるため、看護教育施設の建立を目指す。1951年に設立が認められる。1952年、青森県立高等看護学院(現在の青森県立保健大学)が開校
1964年
保健婦助産婦団体による「もったらころすな運動」を展開。当時の青森県の乳幼児死亡率は全国で最悪を記録。保健婦の地域密着の家庭訪問、早期に役場に届けを出した妊婦へさらしを配るなどして、乳幼児死亡率解決に取り組む
1965年
「派遣保健婦制度」開始。青森県内の約半分の自治体では保健婦が不在であった。県立高等看護学院の卒業生を青森県職員として採用し、派遣。1971年には2人以上の保健婦が在勤する体制を確保
1973年、青森県庁を退職
----
看護の人花田ミキさんの看護の命をかけた波乱万丈の生きざまを映画化し、戦争の悲劇、命を守る保健師の原点、そして「この時代を生きる」ことの大切さを伝えます!
▽協賛パートナー詳細はこちら