Ⅲ第二次世界大戦と私

―生と死の海で―《昭和十六年(一九四一)》
第三回目の召集は、昭和十六年(一九四一)九月に受けた。
一回目、二回目の召集は「勇躍」して出たのだが、三回目は「これは敗ける戦争かも…」という暗い予感があった。それは、二年間、中国河北省石門に勤務して「押せど押せど、砂漠にのめりこむばかり、のれんに腕押し」で、広漠とした大平原に吞み込まれ、日本軍の死傷者ばかりふえていく現実を、傷病兵から感じられたからである。
広い中国で、大平原にのめり込み、吸い込まれるような、戦況の結末も見られぬうちに、「アメリカと戦争がはじまるのでは?」という風聞があり、「これは大変なことになる」と、暗澹(アンタン)とした心境で、召集状を受けたからであった。
毎日の食べ物も少なく、庶民の生活はどん底にあえいでいたといってよかった。
「生きては還れまい。」君国のためという気持ちは失せ、「幼いものたちを守らねば…」という思いにゆすぶられて、家をあとにしたといっていい。
昭和十八年(一九四三)五月には、病いにたおれ、ようやく退院して任に就いたものの、南太平洋の戦いで後遺症に悩み、昭和十八年の夏には、仲間と別れ、帰郷しなければならなかった。
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「I.日中戦争と病院船」、「II. 黄土戦野の病院で」の2勝が終わり今日から「鎮魂のうた」の第3章「Ⅲ第二次世界大戦と私」の紹介となります。いまでも戦争、紛争が起こっている国では「生きては還れまい。」と家を後にする若者がいます。

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