生きたカルテ

作家犬養道子が、前に北欧で病んだとき、地域の保健委員会に電話をしたら、間もなく宿の窓の下に、ピューッと口笛が聞こえた。見たら一人の女性が、「室のカギを投げおとすように」と言っていた。やがて入ってきたのは保健婦であったという。彼女は手厚い看病を受け、医師にも連絡がとれて回復したが、このような制度ができあがるまでの、ヨーロッパの歴史の重みを、実感として受けとめたと彼女の手記にあった。
青森県では、出かせぎが多い。遠洋の捕鯨から帰って生まれた鯨っ子。サケ漁から帰ればサケっ子が、それもトッチャが留守の間に生まれる。屈強な男手が永く留守になるのだからいろんなことがある。出かせぎからトッチャが帰ってきたあるカッチャ。「帰って来たら、春駒(ごま)のようで、とてもからだがもたないじゃ」。
ある村のカッチャはいった。
「男がいないので、村の女たちは、重いものをかつぐ。お産のあとも、すぐ働かねばならなかったから、子つぼがおりた人はなん人もいた」
出かせぎ風ものがたりと笑いながらかがして聞いてはいられない。出かせぎの起伏は、人情の機微にまで深く関わっている。ひとりひとり、真剣にもちかける相談を受けるのは保健婦
母と子のことだけでなく、ねたきり老人の看護のし方や、成人病の防ぎ方などをひろめ、結核でねている人を訪ねては、医師と連絡をとり合う。人の暮らしに密着して、多様な健康の問題に、キメこまかくとりくんでいる。
この"生きたカルテ”ともいえる保健婦は、いま県内に二百八十人いる。精いっぱいやっている。だが、まだ人数は足りない。四百人はほしい。地域には居宅で看護が必要な人は、人口十万人のうち三百二十人はいるはずだから。
北欧までは道は遠いとしても身近に、”生きたカルテ”がめぐり歩く日を待ちたい。
花田ミキ「巻きもどすフィルム」61-62p
1973年6月7日に東奥日報の記事になったもののようです。

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