華北の病兵たち

マラリアの発作(ホッサ)はげしき病兵をおさえるほかにすべきはなかりき
北支、石門陸軍病院には、マラリア患者のみを収容したマラリア病棟があった。二日ごと、三日ごとに発作をおこす、二日熱タイプ、三日熱タイプがあり、毎日発作をおこすものを全日熱と呼んだ。か黙な研究者タイプのY軍医は、一日中マラリア病棟の診察室で、顕微鏡をのぞいていた。マラリアの発作は、はげしいふるえがつづいていてから発熱した。大抵、夜中に発作がはじまった。そのときは、毛布のうえから押さえつけたが、私たちをはねかえすほど強い発作であった。そのときの、夜勤者の仕事としては、患者の静脈から採血して夜中に血中で暴れるマラリア原虫を調べたいという、軍医の診断材料にすることであった。いちどに、発作患者が出たときには、二名の看護婦は転手古舞であった。それにしても、マラリアは、中国の風土病としてひろがっていて、日本軍の兵たちも発病し苦しんだ。
二、腸チフス
石門の伝染病舎のチフス兵にたくあんすりて含ませし夏
チフス患者も多かった。発熱、高熱がつづき、首や胸に、ロゼオラという発疹が出て、下痢もともなう消化器伝染病である。こわいのは、腸出血があって、そのためになくなることが多い。チフスには、たべものに細心の注意が必要である。栄養のある流動食は手に入らなかった。重湯、おかゆ、みそ汁を工夫してたべさせなければならなかった。食欲も落ちた患者が、たくあんを食べたいと言った。たくあんをすって、ガーゼに包んで吸わせた。みそ汁の実は、すってドロドロにして、一口ずつ与えた。チフスは、解熱期が危険であった。猛烈な食欲が出てくる。このとき、たべものに失敗すると、取り返しがつかない。毎食のおかずを調べて、まだこれは早いと思ったら食べさせない。骨と皮にやせほそった桜井一等兵が、やっと峠を越えて、快復したので、私たちは、ホッとした。彼は、さかんにたべものをせがんだ。彼は、慰問袋の色紙に、「ライスカレー」「やわらかいうどんの卵入り」「親子丼」などと書いて病室にはっていた。ようやく、七分がゆになったころの、ある日、「食べ物を手に入れるには…」と私たちに、彼はこう話した。まず、ズボン下の裾をひもでしばる、長めの病衣を着る。スキをみて、他の兵にまぎれて酒保にゆき、かんづめを買う。それを、ズボン下に入れて、ヨチヨチと帰り、院庭のすみに埋める。夜にまぎれて取り出して食べる。この方法は、古参患者から教えられた、と言った。みんな、びっくりしてしまった。よくも、腸出血をしなかったと、彼の幸運を喜んだ。桜井さんはニコニコして退院し、山西省の原隊に帰っていった。たしか、姫路の人であった。健在なら会いたい人のひとりである。
三、コレラ
しわばみしコレラの兵にリンゲルをさすのみなりし北支の病舎
真性コレラにかかると、ひどい下痢がつづき、皮膚がしわばみ、頬がこけ、皮膚をつまむと、なかなか元にもどらない。鼻がとがり、老人のような顔つきになる。治療としては、大腿部に大量のリンゲル注射をくりかえした。そのころ、点滴注射はなかった。快復に向かうと、空腹を訴える。病室の戸をたたき、「パンがほしい」と訴える。食事制限をつづけていたが、どうやら、どの患者も昼にこっそり、酒保にいって、たべものを仕入れていたらしい。
四、破傷風
病室の光さえぎり破傷風のはげしき発作防がんとし
汚れた土から、ひきおこされるガス壊疽(エソ)や、破傷風の患者もあった。破傷風は、はげしいけいれんがつづいた。病室に毛布を張りカーテンとして、外からの光をさえぎった。全身を弓なりにそらせる発作のときは、何人もでおさえた。ベットから落ちないように、舌をかまないように注意する他に、適当な手当てがなかった。ワクチンも、抗生物質もなかった当時の、無防備な戦争に、今さらながら慄然とする。

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