花とささげーつつ

神苑の花の下なる捧げ銃(ツツ)たかぶりたりき女学生われ
弘前公園の西堀に近く、護国(ゴコク)神社がある。
昔は、招魂(ショウコン)社と呼ばれていた。
桜の満開のころ、毎年、招魂祭があった。
その日は、弘前八師団の歩兵三十一連隊や五十二連隊の将兵が参拝した。
ラッパ兵が吹く招魂のラッパがひびき、隊長の指揮刀がひらめき、軍靴のひびきがつづいた。
兵隊のあとには、旧制弘前高校はじめ男子中学生が訓練銃をもって「ささげーつつ」の号令とともに参拝した。
つづいて、女子中学生が六列横隊で行進し、社殿の前で最敬礼をした。
神苑には、銃剣の光芒、カーキ色の軍服、軍靴とラッパのひびき、男子学生のゲートル姿、女子学生の紺の制服があふれ、渾然とかもし出された情景は「海ゆかば水漬く屍、山ゆかば草むす屍」千万人といえどもわれゆかん、という熱気と興奮のルツボの中にあった。
高等女学校の在学中には、招魂祭には、四回参加している。

忠霊の前に、銃剣をさらめかして、「ささげーつつ」をする軍隊、この予備軍のように男子学生がつづき、それを支える女学生。
あの日の情景は、あのあとにつづいた我が国の、十五年戦争の図式を予見させるものであった。
まつりも、まつりごとも、軍も、教育機関も一体となってすすめられる行事にも、一点の疑問を抱くこともなく、酔っていた私。
幼いときから、徹底した皇民教育をうけたこわさを知ったのは、昭和二十年八月十五日、第二次世界大戦に破れた後であった。
そういえば、私が高女を卒えてすぐ満州事変がおこったから、かの日、神苑に集まった、兵、学生らは、我が国の十五年戦争の渦に、まともに巻き込まれた世代である。私もその一人。
多分、戦没者も多かったろう。
かの日の「ささげーつつ」の銃剣のきらめきをさらに盛り上げたのは、粉々と舞うかの日の花吹雪であった。 
「鎮魂のうた」75-77p
※写真は、花田ミキさんの母校、現在の青森県弘前中央高校の隣にある弘前公園のさくらです。

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